「永遠に準備中」の人は、なぜいつまでも“スタート地点”にいるのか

未分類

「いまはいろいろ準備しているところです」
「もう少し整ったら動きます」

こういう言葉を口にする人は多い。
そしてよく見ると、そのうちの何人かは、

  • 何年も「準備中」と言っている
  • 環境も仕事も人間関係も、実はほとんど変わっていない
  • 本人の不満だけは、じわじわと増えている

という状態にいる。

なぜ「永遠の準備中」の人は、いつまでもスタート地点のままなのか。
それは、準備という行為そのものに、“動かなくて済む仕組み”が埋め込まれているからである。


準備とは、「決めないための最高にそれっぽい言い訳」である

まず直球からいく。

多くの「準備中」は、実態としてこうである。

自分に合わなそうなものを避ける理由を集める作業

であって、

自分がどこで戦うかを決める作業

ではない。

典型的な流れはこうである。

  • この仕事は、まだ本気を出すステージではない
  • この職場は、準備が整うまでの仮の場所である
  • この人間関係は、まだ様子見である

……と考えながら、
「本番は別にある」という前提だけを延々と守り続ける。

このスタイルの危険なところは、

  • 一見、慎重で、計画的で、深く考えているように見える
  • 実際には、何も選ばず、何も背負わず、何も壊さない位置に居続ける

という点にある。

「永遠の準備中」という立場は、決めないための言葉としては非常に優秀だが、人生を前に進める力はほとんど持たない。


なぜ「準備中」の状態はこんなにも居心地がいいのか

それでも人は、「準備中」を手放さない。
そこには、いくつかの甘いメリットがある。

① すべての失敗が“保留”になるからである

「まだ準備段階なので」という一言で、

  • 中途半端な経歴
  • 中途半端な成果
  • 中途半端な人間関係

これらすべてに対し、

「本気を出したわけではない」という免罪符

を貼ることができる。

本気でやって失敗したわけではない。
まだテスト中であり、本番ではない――そう思っていれば、プライドは守られる。

責任だけを未来に送り続ける装置としての「準備」は、とても居心地がよい。


② 何も成し遂げていなくても、“意識高そうな人”として扱われるからである

「準備中」「土台を固めている」「いずれ動く」

このあたりの言葉は、人によっては妙な説得力を持つ。

  • 考えている自分
  • 計画している自分
  • 将来を見据えている自分

を演出するには、非常に都合がよい。

周囲もなんとなく、

「あの人はいろいろ考えているんだろうな」

と勝手に深読みしてくれる。
その結果、行動していないのに“意識は高そうな人”というポジションが手に入る。

しかし現実は、「意識」ではなく「行動」と「結果」でしか変わらない。
準備だけで世界が変わるなら、誰も苦労はしないのである。


③ 常に“もっといい未来”の可能性を握りしめていられるからである

準備中のあいだ、人は心の中でこう思い続けられる。

  • もっと自分に合った仕事があるはず
  • もっと自由に振る舞える環境があるはず
  • もっと分かってくれる人たちが、この先にいるはず

つまり、**「本当はまだこんなものではない自分」**を、ずっと温存していられる。

もしどこかで「ここで行く」と決めてしまえば、その瞬間から、

  • 思ったほど評価されない現実
  • 想像していたほど輝かない自分

に直面することになる。

その恐怖を避けるために、人は、

「まだ本気を出していないだけ」

と言えるポジションに居座り続ける。
それが**「永遠の準備中」という、安全だが何も起きない場所**である。


「永遠の準備中」になりやすい人の特徴

準備期間が異様に長くなりがちな人には、いくつかの共通点がある。

1. 「選ぶこと」より「後悔しないこと」を重視しすぎる

どの選択肢が良いか、ではなく、

どの選択肢なら失敗と言われないか
どの選択肢なら叩かれずに済むか

という基準で考えてしまう。

この基準にハマると、

  • リスクが小さい
  • 周囲から見て“無難”
  • 評価が明確に下がることはない

という条件を満たす選択しか残らない。

その結果、**「今とほとんど変わらない位置」**にとどまるのが、最適解に見えてしまう。


2. 自分を“観察”している時間は長いが、“実験”している時間が短い

「永遠の準備中」タイプは、自己観察だけは真面目にやる。

  • 自分の性格を分析する
  • 自分の強み・弱みを書き出す
  • 自分の価値観を言語化する

ここまでは、ノートも増え、頭もよく回っているように見える。

しかし、そのあとに続くべき、

  • とりあえず半年はコミットしてみる
  • 外に向けて宣言して、逃げ道を減らす
  • 小さくても、有料の仕事に変えてみる

といった**「実験」「検証」のフェーズになると、途端に動きが止まる。**

これは、

自分を“考える対象”として扱うのは心地よいが、
“現場で評価されるプレイヤー”として晒されるのは怖い

という心理が働いているからである。


3. 「100%しっくりくる状態」まで待とうとしてしまう

このタイプの頭の中には、だいたいこういう幻想がある。

いつか、条件が全部そろったタイミングが来る
そこで一気にスタートすればいい

しかし現実には、

  • 8割ぐらい納得できるタイミングで走り出す人
  • 6割ぐらい納得で始めて、走りながら微調整する人

のほうが、結果的に前に進んでしまう。

一方、「永遠の準備中」側は、

これはまだ完璧ではない
もう少し情報を集めてからだ
もう少しスキルがついてからだ

と考えているうちに、他の人がスタートして、追い抜いていく。

完璧を待つ姿勢自体が、最大のブレーキになっているのである。


本当に“自分”が見えてくるのは、「決めてから」である

ここで少し乱暴なことを言う。

自分とは、準備しているあいだに見えてくるものではなく、
決めて、続けた結果として、あとから立ち上がってくるものである。

たとえば、

  • 同じ仕事に10年向き合ってきた人
  • 同じ趣味を15年続けてきた人
  • 同じ相手と長く一緒に生きてきた人

こういう人たちには、多かれ少なかれ**「その人なりの型」**がにじみ出ている。

それは、

  • 最初からベストマッチだったから、ではない。
  • 何度もやめたくなりながらも、「まあ、ここでやっていくか」と決め直してきたからである。

決める → 続ける → 壊したくないから工夫する → その中で自分なりのやり方が生まれる

このプロセスの中でしか、「自分らしさ」は具体的な形を取らない。

つまり、

準備しているあいだは、いつまでも「仮の自分」のままでいられる。
本当の自分の輪郭は、「準備をやめてスタートした後」にしか見えてこない。

ということである。


「永遠の準備中」から抜け出すための、ラフな3つの基準

では、どうすれば「準備中」の看板を一旦外せるのか。
完璧ではないが、現実的な基準を3つ挙げておく。

1. 「とりあえず3年なら続けてもいい」と思えるか

一生やれるかどうかではなく、まずこう問う。

「とりあえず3年やるとして、致命的にイヤではないか?」

この問いに「まあ、ギリギリ許容範囲である」と言えるなら、
それはスタートしてよいラインである。

逆に、3年も触っていたくないレベルなら、それは準備対象にすらならない。
ただの現実逃避用の候補である。


2. その選択には、「自分がダサく見える瞬間」が含まれているか

選ぶ基準として、地味だが重要なのはこれである。

その選択には、自分がちょっとダサく見える場面が含まれているか?

  • 実力不足がバレる可能性
  • 指摘や失敗で恥をかく場面
  • 逃げたくなるような現場の冷たさ

こういったものが含まれている選択肢は、
自分を本当に変えるポテンシャルを持っている。

逆に、最初から最後まで「そこそこカッコよく振る舞えそうな選択」は、
大抵の場合、浅くてぬるい。


3. 「誰か1人くらいには役に立ちそうか」

永遠の準備中にいるとき、人の意識はほぼ100%「自分の内側」に向いている。

しかし、自分という存在が最もハッキリする瞬間は、たいていこういうときである。

  • 仕事で誰かに感謝された
  • 書いたものが、具体的な誰かに刺さった
  • 子どもや家族のために、しんどいことをあえて引き受けた

こうした場面を通して、

「自分は、こういうときに力が出るのか」
「自分は、こういう役割を担うのが性に合っているのか」

という感覚が、少しずつ形になっていく。

だからこそ、選ぶときの基準として、

「これは、誰か1人くらいの役には立ちそうか?」

という問いを入れておくと、
自分の内側だけを磨き続ける“準備地獄”から抜け出しやすくなる。


結論:「永遠の準備中」をやめた人から、人生は静かに動き始める

最後に、身も蓋もないことを書く。

  • 永遠の準備中でいれば、いつまでも“本気を出していない自分”でいられる。
  • しかし、準備で守られているプライドの分だけ、現実は一歩も進まない。

一方で、

  • 完璧ではないが、「とりあえずこれでいくか」とどこかで腹をくくった人
  • ダサく見える瞬間ごと引き受けて、少しずつ前に進んだ人

の人生は、静かだが確実に動き始める。

その選択が正解かどうかは、あとからしか分からない。
しかし、

「あのとき自分は、これを選んで、こう動いた」

という履歴は、
「ずっと準備をしていた」という履歴よりも、はるかに重い。


「準備するな」と言いたいわけではない。
ただ、

もう十分、考えたし、調べたし、整えた。
あとは、どこかで“準備中”の肩書きを外してもいいのではないか。

そう感じているのに、
まだ「準備が足りない」という言葉の裏に隠れているのだとしたら――

それはもう、準備ではなく「下手な自分を本番に出すフェーズ」に入る合図である。

スタート地点から半歩だけでも離れてみたとき、
ようやく“自分”という輪郭が、少しだけマシな形で見えてくるのだと思う。

タイトルとURLをコピーしました