横断歩道で“歩く人”と“走る人”の世界の見え方

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横断歩道で青信号が点滅しはじめたとき、そのまま歩き続ける人と、少しだけ小走りになる人がいる。

どちらも違反ではない。
クラクションを鳴らされるわけでもないし、警察に止められることもない。

それでも、自分が「つい走ってしまう側」だと気づくと、胸のあたりが少しザワっとすることがある。「また周りに気を使っているな、自分」と、うっすら自覚してしまう感じである。

逆に、点滅しても一切スピードを変えず、当然のような顔で歩き続ける人を見ると、

  • メンタル強すぎでは?
  • 車、けっこう待っているけど本当に気にならないのか?

と、妙な感心をしてしまうこともある。

こういう場面はつい、

  • 気が強い/弱い
  • 図太い/繊細
  • 度胸がある/ない

といった「性格の違い」で片づけたくなる。しかし、本質はもう少し別のところにあるように思う。

ここには、

自分の世界の中に「他人」をどこまで入れているか

という、世界の見え方の違いが、かなりはっきり出ているのではないか。


歩き続ける人の世界の見え方

まず、点滅しても歩き続ける側について考えてみる。

彼らが全員「俺がルールだ」と思っているような危ない人間かというと、さすがにそうではない。おそらく頭の中には、次のような感覚がある。

  • 信号はまだ青なので、自分はルールの範囲内である
  • 車は赤で止まるのがルールである
  • 少し待つくらいはお互いさまである
  • わざわざ走るほどのことではない

つまり、

「自分は決められたルールの中で普通に行動している。
それ以上は相手側の問題である」

というスタンスである。

「後ろの車がイライラしているかもしれない」「運転手が急いでいるかもしれない」と想像することはあるかもしれない。しかし同時に、

「とはいえ、そこまで自分が背負う筋合いはない」

というラインも、きちんと持っている。

その結果、「歩く」という選択ができる。

ここには、

  • 自分のペースを崩さない強さ
  • 「自分はこれでいい」と思える芯の太さ
  • 他人の感情をすべて自分の責任としては引き取らない感覚

が含まれている。

裏から見れば、

  • 他人の時間をやや軽く扱いやすい
  • 「待たせている側」である自覚はやや薄い
  • 「まあこのくらいはいいだろう」というラインが人より広い

とも言える。

良い悪いの問題ではなく、
自分の行動が生む“外側のコスト”に対して、少し鈍感でいられるタイプだ、という話である。


走ってしまう人の世界の見え方

一方で、青が点滅した瞬間に条件反射で小走りになってしまう側。

こちらは、見えている世界がだいぶ違う。

  • このまま赤になったら車が動き出す
  • 自分がトロトロしていたら迷惑になる
  • 「早く渡れよ」と思われたくない
  • 自分一人のせいで何台もの車を止めたくない

要するに、

「自分のせいで誰かの時間を奪うことが、とても嫌である」

という感覚が強い。

信号が点滅したその瞬間、頭の中ではすでに「車側の視点」まで再生されている。

  • ハンドルを握っている人の、少しイラッとした顔
  • 後ろの車列に流れる「チッ…」という空気
  • その人たちの今日の予定が、数分だけ押していくイメージ

現実にはまだ何も起きていないのに、
他人の時間と感情を、自分の中でかなりリアルに感じてしまっているのである。

だから走る。

走ることで、

「ちゃんと急いでいます、すみません」

と、見えない誰かに頭を下げている。

ここには、単なる気弱さではなく、

  • 他人の時間や感情を、自分ごとのように感じる感受性
  • 「自分一人くらい」という発想になりにくい真面目さ

がある。


走る人は「自意識過剰」なのか

ここで出てくる典型的なラベルが、「自意識過剰」である。

  • 人からどう見られているかを気にしすぎる
  • 「変に思われてないか」「嫌われてないか」が頭から離れない

という意味では、たしかに近い。

ただ、もう一歩だけ丁寧に見ると、「自意識過剰」という言葉だけでは足りない部分が見えてくる。

走ってしまう人の感情の流れを分解すると、だいたいこうである。

  1. 車の運転手がイラついているかもしれない(他人)
  2. → そう感じさせている自分が悪い(自分)
  3. → 自分はまた誰かの迷惑になっている(自分の評価)

起点は「他人」である。
しかし、最終的にはすべて「自分が悪い」に着地する。

他人の感情を、

「あの人はいま不機嫌そうだな」という“情報”としてではなく、
「自分がダメだと思われている」という“評価”として受け取ってしまう

というクセがある。

これはたしかに、

感情が、最終的に自分に向きすぎている状態

と言える。

世界で何かが起きる → 誰かが何かを感じる。
本来ならそこで話を終えてもよいところを、

「だから自分はダメなんだ」

まで持っていってしまう。

自意識過剰というより、
「他人の感情を起点にしながら、最後の責任だけは全部自分で引き受けてしまうタイプ」
と表現したほうが近いかもしれない。


資本主義との相性という、もう一つの現実

ここに、あえて資本主義の話を少しだけ重ねる。

  • 歩き続けられる人
    → 自分のペースで動きやすい
    → 決断が比較的早い
    → 他人のイライラを気にしすぎない
    → 結果として「押しが強い人」「仕事ができる人」と評価されやすい
  • 走ってしまう人
    → 他人の時間や感情を、自分の中で背負いがちである
    → 無意識のブレーキが多くなる
    → 自分より相手を優先しがちである
    → 結果として「いい人」「調整役」で止まりやすい

となると、
ルールが「点数勝負」の社会では、前者のほうが有利になりやすい

横断歩道でペースを崩さない人は、ビジネスの場でも「自分の都合」を基準に動きやすい。
一方、走る側の人は、日常的に「車側」のことを考えているように、職場でも常に「相手側」の事情を先に考えてしまう。

その結果、

「ちゃんとしている人ほど、点数になりにくい」

という、割に合わない構造ができあがる。

横断歩道での数秒は、その縮図である。


「走ってしまう自分」を、どう扱うか

とはいえ、ここで言いたいのは、

  • 歩く側が悪い
  • 走る側が偉い

といった単純な話ではない。

ただ一つ言えるのは、走ってしまう側を「気が弱い」「自意識過剰」とだけ切ってしまうのは、かなり雑な理解であるということだ。

走る人は、

  • 他人の時間をちゃんとコストとして感じている
  • 見知らぬ誰かのイライラさえ、自分の中で処理しようとしている
  • 「自分一人くらい」の理屈で押し切れない

という意味で、
社会にとっての「ブレーキ役」になっている。

そのせいで、本人だけが疲れやすいのは事実である。
しかし、それは「弱さ」ではなく、世界の見え方の精密さの副作用である。


おわりに:横断歩道は、小さな世界観テストである

横断歩道で、歩くか、走るか。

どうでもいいような一瞬の行動に見えて、
そこには、

自分の世界の中心に、何を置いているか

が、意外とくっきり表れる。

自分のペースを守る人。
他人の時間と感情まで、自分の中に抱え込みがちな人。

どちらかが「正解」ではない。
どちらも、それぞれ違うかたちでコストを払いながら生きている。

もし自分がどう考えても「走る側」だと思うなら、
それは単に、

他人の時間と感情を、軽く扱えないタイプの人間である

というだけである。

そして、おそらくこの社会は、
そういう人たちの見えないブレーキにだいぶ支えられている。

横断歩道でふと小走りになってしまったとき、
「また気を使っているな、自分」と責める代わりに、

「ああ、自分は今日も、世界の流れを少しだけなめらかにしたんだな」

くらいに受け止めても、
そこまで間違いではないはずである。

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