炎上は不快である。
うるさい。雑。疲れる。
なのに、なぜか覗いてしまう。指が勝手にスクロールする。
ここで自分を責めるのは早い。
それは意志の弱さというより、人間と社会の仕様である。
炎上は「危険」ではなく「痛点」を知らせる
炎上は、危険そのものというより、共同体の「痛いところ」を知らせる。
社会はルールを全部は言語化しない。面倒だからである。
代わりに、誰かが地雷を踏んだ“っぽい”瞬間、集団が一斉に反応する。
つまり炎上はこう言っている。
「そこ触るな。ここが痛い」
炎上は個人の話に見えるが、本体はたいてい空気である。
空気は説明できない。だから攻撃で伝える。雑だが早い。
見ている人は、実は学習している
人は炎上を「娯楽」として見ているようで、半分は研修として見ている。
- どの言い方がアウトか
- どのテーマが地雷か
- どこまでが許されるか
- どうやって燃えを回避するか
他人の事故を見て、自分の運転を直す。
怖いもの見たさというより、安全確認である。
炎上は現代のマナー講習である。
ただし講師は群衆で、教材は誰かの人生である。最悪にコスパがいい。
「正義」っぽい顔をした、地位争い
炎上が荒れるのは、正義感が強いから――だけではない。
もっと単純に、順位表として機能するからである。
叩く側に回ると、一瞬だけ上に立てる。
- 常識がある側
- 配慮できる側
- まともな側
- “分かってる”側
相手を下に置けば、自分が相対的に上がる。
正義は看板。中身は地位。
だから炎上は議論になりにくい。
「何が正しいか」より、「誰が上か」を決める場になりやすいからである。
みんなが見ているのは、情報ではなく儀式
炎上のコメント欄は、内容が薄くても伸びる。
あれは情報交換ではなく、参加の儀式に近い。
- いいねで賛同する
- RTで“祈る”
- 擁護で徳を積む
- 断罪で浄化する
人は一人でいるのが怖い。
だから「みんなと同じ行動」をすることで安心する。
炎上はSNSの祭りである。
神輿は理屈では動かない。空気で動く。
いちばん厄介なのは「たまに当たる」仕組み
「炎上は気持ちいいから見る」だけだと、説明が足りない。
本当に強いのは**“たまにだけ面白い”**という構造である。
- 新情報が出るかもしれない
- 逆転が起きるかもしれない
- 決定打が来るかもしれない
これが人を縛る。
毎回はつまらない。だが、たまに当たりが出る。だからやめられない。
炎上は面白いから見るのではない。
面白くなる可能性があるから見るのである。
結局、炎上は「不安の市場」である
最後に、いちばん深いところ。
炎上を見ているとき、人はこう感じている。
「自分が燃えている側じゃなくてよかった」
この安心がある。
だが同時に、こうも思う。
「次は自分かもしれない」
安心と不安がセットで入ってくる。
だからまた見に行く。距離感を測り直す。
結果、炎上は“安全確認”として習慣化する。
炎上とは、現代の不安が可視化されたものである。
そして不安は、見に行けば行くほど増える。最悪の投資である。
じゃあ、どうすればいいのか
見てしまうのは仕方ない。
人間の仕様である。
ただ、1つだけ効く対策がある。
「これは情報収集ではなく、安心の摂取だ」と気づくこと。
気づいた瞬間、効き目が落ちる。
中毒は名前をつけると弱くなる。
燃えているものを見続けるのは、あなたが悪いからではない。
あなたが不安を抱えているからである。
そしてそれは、あなただけではない。

